昭和49年10月14日 朝の御理解



  御理解 第31節
 「信心する者は、木の切り株に腰を降ろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」
                                                                                 信心をさせて頂くと段々一切の物に合掌できれる心が、段々育って来る。一切を拝む心が生れて来る。そこに私は幸福を感じ、そこに極楽を感じさせて貰う。一切の物に合掌する。一切の物にお礼を言う。そういう心が愈々本当の物になって来る。例えばお食事をさせて頂く時にも、神様頂きますという心。一とすくいの水にでも感謝の心を忘れない。履かせてもらっている履物にでもお礼を言う心持ち。
 今まではもう当り前の様に思うておった事柄の中にも、あれも是もお礼を申し上げる事ばっかりであったと云う様に、お礼を申し上げる範囲と云う物が、非常に広くなって来る。同時に深くなって来る。そこに信心させて頂く者の幸福。信心さして頂く者の言うならば、極楽の状態と云う物があると思うです。有難いな本当に有難い。どんなに思うても勿体ない。そういう心の状態の時は、人間が助かっておる時であると同時に、幸福である時だと思うです。此処では「木の切り株に腰を降ろしても」と仰る。
 言うならば邪魔な物と云う様な物。要らない物。それに対してでも、お礼が言えれるという心の状態。昨日は十三日会の大祭前の十三日会でしたから、もう殆どが御用で終始されましたので、三時過ぎからお話会を。それも今度銀行へ貯金の事の、皆さんへのお願いの印刷物が出とりますからあれを配っての、あれの説明が御座いました。ですから信心の共励とかお話は出来る事ではない状態でしたけれども、私はあのう折角、今日は御用さして貰おうと言って来ておる人も多いごとあるけれども。
 十三日会で良いお話が頂けるからと言うて来ておる人も、幾つも御座いますものですから、それを待って暫くでも私の話を聞いて頂こうと思うて、後で話を聞いて頂いたんです。そのお話の中に、福岡の東さんのお話をさせて頂きました。昨日はあちらの婆ちゃん参って来ておりました。それで此処でお届けをされますのに、「親先生私は初めて、こちらの親奥様のお夢を頂きました」と言うんですよ「どげな夢ば頂いたの」言いましたら「親奥様が、赤ちゃんをおんぶしておられる。
 おんぶ自分でしておられるので、私が後から行って、それをお手伝いさして頂くところを頂きました。」それで私が申しました。私の方の家内は、別に取柄も何もない女ですけれども、まあ何と申しましょうか。これは何と申しますか。これは親譲りでありまして、私の母からがそうでしたけれども、本当に自分が楽をしようというか、自分が美味しいもの食べようとか、自分が楽をしようと云う様な心を。
 先ず起こした姿に触れた事がない。自分で何でん、いっちょ美味しい物を送って食べようとか何処か面白いものを見に行こうとか、たまに温泉の一つもやってもらわねばと云った様な事を聞いた事がない。これは私の母もそうです。言うならば何て言うですかね非常に犠牲的精神が強いとでも申しましょうか。例えばなら若い夫婦の場合でも、もうとにかくその若い者が喜ぶ様に、若い者が喜ぶ様にと云う様な心の状態のように感じられるのです。私側におってさあ若い者。
 言うならば嫁達がバダバタしておる。ならそれを出来るだけいろんな心を使って、少しでも楽になる様に楽になる様にと、何時も心掛けておるという。しかも黙ってそれがなされていると云う事。これはもう私の母は、もう本当に素晴らしい方ですね。だから結局その母に似るというか、まあ母が残しておった信心、残してくれておるというか、教えておってくれるというか、そういう信心を家内もやっぱり身に付けておる。
 もうせからしか。せからしか。もう孫の守りだけで地獄ごたるちゅう婆さんがおりますよね。私の母なんかもう、私が若い私が元気な時に、さっさと子を産んどかんなち言うてもう、負うて引いてそして乳母車に乗せて、お守しておりました。そしてもう本当にそれこそ若い者がまあ言葉に出すと、若い者が喜ぶ様に若い者が少しでも楽になる様に楽になる様にという心を使うておる。
 東さんあなたもね、他の所の真似をする事は、真似する様な所はないけれども、家の家内が、若い者が喜ぶ様にというあの生き方は、真似しなければいけなさらん。その事を神様は夢の中で教えて下さったんでしょうね、と言うて申しました。そう致しましたら東さんが言われる事です。「先生もう本当にその通りです。別になら嫁を憎んだりどうこうと云う事はないけれどもねもう、自分を大事にしないとか自分が少しでも楽なあり方にならせて貰おうという気持ちはあるけれども若い者を楽をさせよう。
 若い者に喜んで貰おうと云う様な心掛けがない証拠に、先日孫にばあちゃんは好きかと言うたら、面見るとも好かんちゅうげな。長男の子供それからすぐ隣に次男が世帯を持っとります。それで弟のこんどは子供に、あんた婆ちゃん好いとるね、ちゅうたらまあまあちゅうた」と。まあ言うならば、本当にがっかりする様な悲しい話ですけれどもね、例えばそういう例えばお話を、昨日十三日会の皆さんの一杯おられる中で話をしたんです。これが他の人だったらどうでしょうかね。
 そげな事を人の前で話してと言うに違いないですよね。所がねここで頂いた御理解の時は、さほど感じなかったけれどもあそこで、人前でお話を、先生がなさった時に、初めて私は本当に若い者を大切にせよとか若い者が楽になる様にとか、若い者がちっとでも喜ぶごと喜ぶごとと云う様な精進努力をしていなかった事をです。改めて分かったと言うんですよ。成程孫が面見るとも好かんと言う。本当に、まあまあと言うのは当り前だと思うたと、帰り掛け真からお礼を申して帰られました。
 私は素晴らしいなあ。御理解ちゃ素晴らしいなあと思いました。今例えば皆さんの上に置き換えてご覧なさい。孫からもう面見るとも好かんと言われた様な事をです。お届けだからするけれども、それを人の前で発表されてご覧なさい。言うならば今日の御理解でいうならば、木の切り株である。もう言うならば自分の悪口である。その自分の悪口を、しかも恥さらしの様な事をです。自分が言うた事を又、皆の前で言われた。その事をです有難いと受け取る心です。
 信心とはあの人が悪口を言うたと言って、憎むのでもなからなければ、腹を立てるのでもなくてです、本当言われてみれば言われてみる程、自分が若い者が本当に喜ぶ様にと云う様な心を使うた事がなかった。これは親奥様の真似をここだけなっとさせてもらわなければという事がです。お結界でお届けをしてお話申し上げた時には、そういう聞いた時には、そうでもなかったけれども皆の前で言われた時に、赤裸々に本当にそうだと思うた。分かった時に又改めてです。
 本当に今日はおかげを頂いてとお礼を言う。所謂お礼を言う心。私はお礼を言うと言う事はねお礼を言う。有難うございます。有難うございますと言うてさえおればよいと云うのではなくてです。心から有り難う御座いますを思うたら、その有り難う御座いますがです、形に現われ出されなければ、有り難いという値打ちはないと思います。そういう意味で、一番信心さして頂いて、大なるものは、私は御大祭だと思います。日頃おかげを頂かして、頂いておるそのお礼の印がです。
 あの大祭に現われて来るのです。お供えもお礼の印なら、お礼参拝もお礼の印である。そしてです。合楽示現活動に、参画するという事が言われておりますが、どれ程どれだけ、自分の周囲に難儀な人達があり、知った人があり信心のない人達、ある人達をです。どれだけ自分が示現活動に現わすか。まあ私は御大祭というのは、示現活動の現わす一番良いチャンスだと思うです。とにかく一辺御大祭に、お参りしてご覧なさい。これは有難いだけではない。それこそお祭りを頂き頂き、話を頂き頂き病気が治る。
 盲が目が開く。ちんばが立つという奇跡が現われる程しに有難いという。言うならば、るつぼの様なものが、御広前全体に現われて来る。だからお話を頂き頂き、お祭りを拝み拝み、おかげを頂く程しの有難いお祭りですから、ぜひ一辺お祭りにお参りしてご覧なさい。御参拝のおかげを頂いてご覧なさい。車がなからにゃ私の方の車を持って来ますからと言う位なですね。私はお礼心が伴うて初めて、御大祭の所謂お礼のお祭りという事が言えれると思うです。皆さん考えておられるでしょうか。
 今度は誰も誰も一つお導きしよう。家の車に誰も誰も乗って来ると言うなら、乗せて行こう。いや一辺ではない、二へんでも三べんでも、行ったり来たり、お参りする人があれば、お導きしてこういう時にこそ、そういう働きを現わす。示現活動の一番させてよい背負い時、もうおかげが目の前につら下がっている様な時ですから。御大祭というのは。皆の喜びがもうそれこそ、ここで一杯喜びの雰囲気が、神様に届けられる。御報告さして頂けれるいうならお祭りが、私は御大祭だと思う。お礼日頃は出来ません。
 日頃は頂けませんけれども、せめて大祭の時だけくらいは、自分の思う存分のお礼がさせてもらえる。祝わせて頂けれる。そこにお祭りの意義があるのです。ただ自分だけが参りやよではいかん。愈々合楽示現活動に参画さして頂いとる皆さんですから、本当にそれを現わす時こそ、私は大祭に現わさして頂いてこそ、本当のお礼という事に、お礼のお祭りという事になるのではないでしょうか。先生がただ祝詞をあげられて、先生だけのお祭りではなくて、ここに御縁を頂いとる者一人一人のお礼のお祭りである。
 そのお礼の印に、成程お供えの一つもさしてもらおうだけではない。神様が一番お喜び下さるところの難儀な氏子のお供えこそ、神様が一番喜んで下さる事だと思います。どうぞ皆さんの周囲にあります。お話すればなら私もいっちょ参って見ろうか。私も連れて参って下さいと云う様な人が必ずあるでしょう。ですからせめて二人でも三人でも、そういう人達のお導きの出来る様なおかげを、私は頂いて貰たいと思います。「信心する者は、木の切り株に腰をおろしても休んで立つ時にはお礼を言う様な心持ち」。
 言うならば、腹の立つような問題。そういう例えば、問題でありましても、その事に対して、心からお礼が言えれる様な心こそ、信心の心を今日は私は東さんのおばあさんの例をもって聞いて頂いた。これも当然。当り前これだけのおかげを受けておるのですから、当然お礼を申し上げねばおられん。しかも形に現わさなければおられないというのが、御大祭だという事を聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。